昨日のアルバム『Puka Shells』に引きつづき、アーサー・ライマン(Arthur Lyman)。

ネット上の日本語の情報、ディスコグラフィーや作品中心だったので、そのひと自身や活動やそのほかのことについて、すこしまとめてみることにしました(英語でのWikipediaなどを参考にしています)。

"the King of Lounge music"とも知られるアーサー・ライマン、同じ時代に活躍したエキゾティカ・サウンド&ラウンジ・ミュージックでは、マーティン・デニーや レス・バクスターなどがあげられると思うのですが、ライマンのちょっと他とちがう点は、どちらかというと「外からみたハワイ」的なサウンド・カテゴリーの中でのハワイ出身のミュージシャンであるということではないかと思います。

アーサー・ライマン (1932年2月2日~2002年2月24日)は、ハワイ州カウアイ島生まれ、ハワイアンの母をもち、父はハワイアン、フレンチ、ベルギー、チャイニーズなどのミックス。よくハワイでは、カウアイ・ボーイはハンサム、ガールは美人などといわれることもあるのですけれど、血のまざり具合も、そんなカウアイ的なルックスでもありますね。8人兄弟の末っ子として育ち、父の事故での視力喪失で、オアフに移り、マキキに住み、マッキンリー・ハイスクールを卒業(マッキンリー・ハイスクール、公立校ですけれど、いろんな才能を持つ方が多いです、場所がらでしょうか。ホノルルのタウン育ち的なイメージ)。

1950年代には、マリンバの奏者として、マーティン・デニー楽団のメンバーであり、その後、楽団をはなれ、自らがリーダーとなるグループをもち、数々のレコードをリリース。ディスコグラフィーでみるところによると20年ちょっとの間に35枚近く(ここまで数が多いとは知りませんでした)。

アーサー・ライマンのプレイは、ビートやアレンジ、展開に、ジャズらしさをところどころアクセントとして色濃く感じさせる部分があったり、すごく魅力的ですね。初期のアルバム『Leis Of Jazz』など、あらためて、とてもかっこいいです。

Leis Of Jazz - Arthur Lyman



ジャズの要素は、幼いころのエピソードからもうかがえるなぁと。

音楽が大好きで、マリンバや木琴をプレイするようになったアーサーに、お父様は、サポーティブな意味できびしく、ベニー・グッドマンを聴かせ「これがよい音楽だ」と、これにそって演奏してみるように、と、練習の応援をしていたそう。4本のマレットで演奏するテクニックをすぐに身につけ、14歳で、すでにプロとしてグループ、Gadaboutsに参加。カカアコのルロイで演奏。夜はナイトクラブ、昼は学校と、ハードなスケジュールでも音楽をつづけることがとっても楽しかったと。

高校卒業後は、ハレクラニ・ホテルで、デスククラークとして働いていたそうですが、このハレクラニ・ホテルで、マーティン・デニーと出会ったのだそうです。
マーティン・デニーはアーサー・ライマンの演奏を聴いて、惚れ込み、当時のホテルでのお給料より高いギャラをはらうから、ぜひ、一緒にやらないかということで楽団にさそったのだとか。

この後、ハワイアン・ヴィレッジのシェル・バーでの夢のようなライブが展開されていくことに(ハワイアン・ヴィレッジ、現在はヒルトンですが、このストーリーもいつか。ハワイの街開発などもふくめ)。1957年には、マーティン・デニーの『Quiet Village』が大ヒットとなり、アロハシャツ、トロピカル・ドリンク、ティキなど、アメリカン・カルチャー的解釈のポリネシアンのエキゾティカ・ブームに。

その後、アーサー・ライマンは、グループをはなれますが、親しいライバルとして共演したりという円満体制。

レコードのリリースもアクティブであったとともに、ライブ演奏も。金曜日、土曜日には、ニュー・オータニ・カイマナ・ビーチ・ホテルでのライブは、1970年代から1990年代までずっとつづけていたのですね。
他には、Don the Beachcomber's Polynesian Villageやハワイアン・ヴィレッジのThe Shell Bar、Waialae Country Club、イリカイ・ホテルのCanoe Houseで演奏、米本土にもよく演奏ツアーに(これも、いわゆるコンサートではなく、あくまでもラウンジ的に)。

レコーディングは、1950年代後半から1960年代、1970年代を中心に。
ディスコグラフィー
アルバム『Taboo』(1959年)はビルボード6位となり、1年以上チャートイン。

Taboo - The Exotic Sounds of Arthur Lyman - Arthur Lyman



もとはハイチのうたである『Yellow Bird』(1961年)は、ビルボードのアルバム・チャート4位。

Yellow Bird - Arthur Lyman



先日もふれましたが、イージーリスニング系でもおなじみの名曲『Pearly Shells』もすごくよいアレンジ。
この曲が収録されいる同題のアルバムは、ハワイらしいおなじみナンバーが多いですけれど、解釈がとてもすてき。

Pearly Shells - Arthur Lyman



アーサー・ライマンのサウンドは、ラウンジ、エキゾティカということだけでなく、音がほんとに輝いていて、いろいろなものを感じさせてくれますね。ずっと前にも、学校の図書館などでは、音源すこしさぐってたのですけど、あらためて、よいなぁ~と思っています。

[レコードって、のつづき]
直接、アーサー・ライマンに関してのことではないですが、レコードのこと。
今回の滞在では、ビッグアイランドへの旅で、すこしスリフト・ショップやアンティークストアにもひさしぶりにそれなり時間をかけて立ち寄ったりしたので、レコードをちょっと手に取る機会もありました。
そこで感じたことなど。ある町のスリフトストアでは、けっこうよい状態のものが1ドルであり、なんだか、スリフトストアでもホノルルは、ちょっとだけ高くなっちゃってた気がしたけど、まだまだ以前のようなよい感じでも買えるのだなぁとよろこんで(念のため。もともとそんなに多くおいてないです、ふつうになんでもリサイクルのとこなので)。
何枚か買いました。
ただ、レコードのアンティークとしての意味あいってどうなのだろうと、アンティークストアでは同時に感じたり。
アンティークストアでは、ほしいアルバムなどあったのですけど、傷すごくついて、ジャケットも刷れてるのに3、4ドルなどという値段。ほかのアンティーク商品をみると、全般が高いという訳ではなかったりもするので(もちろん、これがですか?という価格設定のものもありますけど、これはつきものなので)、さらに???
レコードって、やっぱり聴けてこそ。そして、そのレコードを聴くプレーヤーというもの現時点での普及などを考えると、コンディションがよくないものがその値段って、なんだか中途半端ではないかなぁと。

CDやmp3などが普及して、レコードはアナログが好きなひとが買うから、すこし高くても買うんじゃない、みたいなのは、すこしがっかりします。

わたしは、一番買ってたのは、こちらに旅行できたり、移り住んだときなど1990年代ですが(それでも枚数買ってませんけれど…)、やっぱりレコードの針の音やかける瞬間が好きだからという理由がメインでしたけど、とり残されたその価格(1ドルとか)に、かわいさや愛しさを感じていたのですよね。

アーサー・ライマンも、ほしいのありました、レコードで。でも、コンディションなど…。もともとひとの手をはなれてたどりついたものなのに…。むしろ、いま2枚組みにして手ごろな価格にして販売されてるCDの方がよほど、よい心を感じたり。

で、やっぱり、ハワイにも以前のように、USEDレコードショップ残っててほしかったなぁなんて思ったり。やっぱり、レコードを好きで売ってる方は、コンディションだって気にしているし、それにひっかからないものは、とてもとても手ごろな価格で販売されてたし。でも、いま、ハワイには、それをほしいひとも多くなくなっちゃたのかなぁとか。
うまく言えないけど、なんか、そのほかも、すこしづつだけど、いろいろと、考えました。

日本は、よいUSEDレコード屋さん、いろんなニーズでありますけれど(ぼんと置いてあるから探してタイプ、ちゃんと揃えてきちんと管理)、買う人もそれに応じてなので、まだ、よいよねぇ、と思ったり。

(投稿:日本 2011年7月30日、ハワイ 7月29日)

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 思い出の曲へ




0 コメント