ジャズ関係のサーチをしていたところ、たどりついた動画、KOREAの方らしい「Seung-Hee Choi」さんというシンガー。とっても気になったので詳しい情報をみてみたところ、Seung-Hee Choiさんは、なんと、あの伝説の舞姫、崔承喜(さい しょうき、チェ・スンヒ 최승희)でした!偶然の発見に感動、なのですが、実は名前と日本でも活躍した舞踏家だったということ意外知らなかったので、きょうはもう少し調べ、関連映像で、1930年代、日韓併合時代のジャズの作品も関連で聴くことができましたので、これからの課題として、こちらに。

崔承喜:Seung-Hee Choi - A Garden In Italy (1936)



그대 그립다 君戀しI Miss You (1933):
佐々紅華さん作の名曲、『君戀し(君恋し)』歌うは、女優、Bok, Hye-suk(チョソングル、漢字表記などわからないです)。演奏は、日本のコロンビア・オーケストラ、日本コロンビア・レコードで1933年に録音されたもののようです。日本コロンビア・オーケストラながら、この中では一番、韓流なアレンジのような気がします。最後には二村定一さん歌唱による日本語オリジナルものも(オリジナル、正確にいうと、佐々紅華さん作詞、高井ルビーさん歌唱の大正時代ものですが、代表的ヒットは時雨音羽作詞の二村定一さんのものですね)。



청춘의 밤 The Night of Youth (1933):
歌、Choi,Myoung-Ju (최명주)、作曲、Yun, Young-Hu (윤영후)。1933年に韓国で作曲された初のジャズソング。Choi,Myoung-Juさんは、平壌で妓生(キーセン、芸者さん)をされていた方。



Sing Sing Sing (1939):
歌、アレンジともにMokinn Son。演奏、リーガル・オーケストラ、1939年、ソウルのリーガル・レコード録音。



楽曲それぞれについて書かれたブログがあるようなのですが、ハングルわからないので後ほど翻訳ツールで調べてみようかなぁとも。

[崔承喜]
崔承喜さん、1911年11月24日に、京城(ソウル)の両班(ヤンバン、韓国史劇知識でしかないのですが、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚・支配階級ですね)の家に生まれる。裕福な家庭で、良家の子女として育ったようですが、日本占領の影響下、家の様子もだいぶ変化。とび級をするほど優秀な方だったので、学校の支援などもあり、日本への留学やソウルの師範学校へ進めるほどであったにもかかわらず、まだ年齢に満たないという理由で留保されている16歳のときに出会ったのが、舞踊団の公演でソウルにきていた石井漠さん。その後、石井漠さんに師事し、

16歳のときソウル公演に来ていたモダンダンスの石井漠に師事し、内地、日本本土へ。舞踏で独自のスタイルを築き、その美しさから化粧品や百貨店の広告でのモデルともなり、雑誌の企画で日本を代表する美人の一人に選ばれ、ファッションリーダーに。ピカソやジャン・コクトー、川端康成等多くの文化人にも支持されたとか(このあたりの情報はWikipedia:崔承喜より)。

戦時中は日本人として支那戦線の日本軍へ慰問団の一員として慰問活動などを行っていたものの、アメリカ西海岸での公演では、朝鮮独立運動家から日本語読みの名前で活動していることを理由に批判されたりもしたようです。そんな中、「カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)」活動をする早稲田大学に留学中だった青年と出会い結婚。独立派支援活動にかかわったとのことから日本政府からは反体制派の一人とみなされるように。

戦後は夫と共に北朝鮮に移り、舞踊研究所を設立。その後、1951年、周恩来の支持で北京に舞踊訓練班を設立し、多くの生徒を指導。 1967年には「ブルジョワおよび修正主義分子」とし北朝鮮から粛清され、以降夫の安漠・娘の安聖姫とともに消息不明に。

2003年2月9日に、1969年に亡くなったこと、遺体が愛国烈士陵に葬られ墓碑に「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれていることが公式筋より公表され、「人民俳優」として名誉回復されたことが明らかとなったとか。ただし、失脚理由や死因は公式発表されておらず、公式発表の没年月日なども、未だに疑問がもたれているそうです。

出演映画:
半島の舞姫(1936年、新興キネマ製作、監督今日出海)
大金剛の譜(1938年、日活製作)
伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心(2000年) - 崔承喜の生涯を追ったドキュメンタリー映画。

(投稿:日本 2010年6月28日、ハワイ 6月27日)

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 思い出の曲へ
にほんブログ村

0 コメント