近頃、うちの小学4年生、「花咲き、花散る宵も~♪」、「楽し都、恋の都~♪」などと、かなり気になる口ずさみ。
どうやら、来週末の運動会(最近は春の運動会も多いですね)で踊る「大江戸ダンス」という曲からの学びのよう。
「大江戸ダンス」とは東京にゆかりのある懐かしの流行歌や唱歌をアレンジした曲にあわせて踊るダンス。毎年9月に行われる「大江戸舞祭」というコンテストがあり、アレンジに使われる課題曲は年によってことなるようですが、ベースとなるのはいつも『東京ラプソディ』。(参考動画:「大江戸舞祭」)。
おなじみの懐メロ、『東京ラプソディ』(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政雄)は、藤山一郎さんが歌う東京をテーマにした1936年(昭和11年)の大ヒット曲。あらためて聴いてみるといろいろ知らないこともあり、いつものことながら歌の世界は深いですね。
映画があることは知っていたのですが、歌をベースにあとからつくられたものなのですね。歌のリリースと同年に映画が作られるとは。当時のヒットのすごさと共に、フットワークの軽さにも感心です。まだ観たことがないので、ぜひ今度観てみたい!です。
P・C・L映画「東京ラプソディ」(1936年)OP ED
監督:伏水修、原作:佐伯孝夫、脚色:永見隆二
主な出演者:藤山一郎/椿澄枝/伊達里子/星玲子(日活)/井染四郎(日活)/宮野照子/御橋公
古き良き「モダン都市」東京を舞台にしたミュージカル。「有名なカフェ美松の内部が出てくる」「女性ジャーナリストが打ち合わせをする場所は、今話題の銀座の「不二アイス」」のも大変貴重な映像とのこと(指田文夫の「さすらい日乗」:『東京ラプソディ』参考にさせていただきました。ベティ稲田さんの映画『舗道の囁き』のことにもちょっと触れてたり)。
先の動画を観賞してみたところ、映画には、レコードにはない、5番があるのも発見です(1番から番までの歌詞)。
花咲く都に住んで~♪
かわらぬ誓いをかわす
ある東京の屋根の下
咲く花も紅い薔薇
楽し都、恋の都
夢の楽園(パラダイス)よ花の東京~♪
多くの方がカヴァーし、藤山一郎さんのものでも別のヴァージョンが存在しますが、オリジナルのテイチク盤にもテイク違いが。
「昭和11年7月発売。1、2両方が赤盤なのですがテイクが違います。分かりやすいのは1分32秒から1分34秒です。テイクがいくつかあるようですね」とのこと。
東京ラプソディ 赤盤 テイク違い1
東京ラプソディ 赤盤 テイク違い2
テイチク盤の口笛が好きですが、こちらは、昭和27・8年に録音されたコロンビア盤。アップテンポで、ちょっとマーチ的な感じも受けるアレンジ。間奏が楽しげ♪
↓
昭和モダン歌曲集:東京ラプソディー/青い背広で/僕の東京
『東京ラプソディー』に登場する東京の街、銀座は母の青春時代のお気に入り、神田は祖母が十代を過ごした場所、浅草は祖父のホームグラウンド、新宿はいまの住まいの近いということもあり(東京で過ごした方はどこもなじみの場所だとは思いますが)、改めて聴くとさらに愛着がわいてきます。
こどもに聴かせてみたら「わかる!わかるぅ!!」とよろこんでおりました:)
これを機会に懐かしのメロディーに目覚めてくれるとよいのですが…。
[藤山一郎さん]
以前にも『若き血』や『スジャータCM』などでも触れているのですが、本日、簡単ではあるのですが、その生涯を追ってみて、つくづくすごい方だなぁと。
気になったことや主要年表、Wikipedia:藤山一郎を参考にメモ。
1911年4月8日、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町に、日本橋長谷川町のモスリン問屋・近江屋の三男(5人兄弟の末っ子)として生まれた。父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女。幼少期の藤山は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ており、経済的に大変恵まれた環境にあった。
1918年春、慶應義塾幼稚舎に入学。この時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演。
※すでに二足のわらじ的。
1929年4月、慶應義塾普通部を卒業後、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(現・東京藝術大学音楽部)に入学。当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山一人であった。入学試験の口頭試問で音楽をやる理由を問われた藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた。
家業の借金などの事情もあり、在学時代からレコード歌手として活動を始める。校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名を用いることに。名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れ、「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎に。
この変名はわずか5分のうちに生まれた。
※永藤は、わたくしのこどもの頃の思い出のパン屋さん。いつも食べていた「永藤のパン」。甘食、たまごパン、懐かしく。上野・永藤、今はもうないようですね。残念、シクッ(夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所:今はなき永藤パン)。
『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムに。
歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円ときめられていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。
そんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。めあわや退学処分ということになったがハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対。学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も擁護に回った結果、今後のレコード吹込み禁止と停学1か月の処分となる。その一ヶ月は冬休みだったため、実質的な処分は科されなかった。
1933年3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業。
オペラ歌手として将来を期待されていたが、実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに専属歌手として入社。すでにヒット曲もあったコロンビアではなくビクターに入社した経緯については安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、橋本国彦、徳山璉、四家文子ら東京音楽学校の先輩らが専属にいて、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があった。
ビクターとの契約期間は3年で満了。ビクターは藤山との再契約を望んだが、コロムビアから移籍していた古賀のいるテイチクに。契約金は1万円(内閣総理大臣の月給は800円)。
1936年、『東京ラプソディー』が販売枚数35万枚のヒット。B面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金の返済を完了。PCLによって『東京ラプソディー』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演。
1939年にテイチクとの契約期間が満了。古賀とともにコロムビアへ移籍。コロンビア移籍後藤山は『上海夜曲』や服部良一との初のコンビによる『懐かしのボレロ』を吹込みヒット。
1943年2月-7月、南方への慰問団に参加。
同年11月-1945年8月、再び南方への慰問団に参加。
1945年8月-1946年7月、インドネシアで捕虜生活を送る。
※捕虜生活も経験なさっているのですね。
1946年7月25日、帰国。
1952年、日本赤十字社特別有功章を受賞。
1954年、コロムビア専属をやめ、NHKの嘱託になる。
慶應義塾在籍中に福沢諭吉が説いた奉仕の精神の影響から、1950年代半ばから様々な社会活動を行うようになった
1958年、NHK放送文化賞を受賞。
1959年、社会教育功労章を受章。
1973年、紫綬褒章を受章。
1974年、日本レコード大賞特別賞を受賞。
1982年、春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。
1992年5月28日、国民栄誉賞を受賞。存命中の受賞はスポーツ選手以外では初めて
1993年8月21日、死去。
(投稿:日本 2010年5月22日、ハワイ 5月21日)
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