週末のおでかけ関連からの気になり。一昨日、土曜日には、お天気もよく公園日和。車で通りがかりでいつも気になり、いつか行ってみようと思っていた飛鳥山公園に行ってきました。
気になっていた点はいくつかあるのですが、太政官布達によって、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定されたこと、そして、渋沢栄一氏の旧邸 「曖依村荘」に隣接し、渋沢栄一史料館があるということも。
(ほかにふたつ博物館もあり、そちらはまた行けるように3ヶ月有効の通し券を購入。また今度。北区飛鳥山博物館では、なんかおもしろそうな展示も予定されてます。ノスタルジア・駅弁掛け紙コレクション 3/19〜5/8)
という訳で、今回は公園での遊びのほかは、渋沢栄一関連中心でした。土曜日は、現存している「晩香廬」と「青淵文庫」の開放日ということで、そちらも見学。大正期のモダンを取り入れたすてきな建築物でした。
史料館での展示物、青淵文庫のヒーターなど、気になるものはたくさんあったのですが、晩香廬でみた一枚の写真がとても気になり。
洋風茶室として建設された晩香廬、渋沢栄一氏はゲストを迎えるレセプション・ルームとして使用されていたものとあって、さまざまな賓客の写真が展示されていました。政財界を中心とした各国の方々の写真の中、なんだか、とても目をひく写真が一枚。デニショーン舞踊団来日の際、というものでした。
こちらのブログによると大正14年(1925年)に来日公演をしているのでそのときのものなのでしょうね。
『デニショウン大舞踊団』 帝国劇場 (1925.9)
『デニショウン大舞踊団演目解説』 宝塚大劇場 (1925.10)
デニショーン舞踊団という名前は目にしたことがあったのですが、あまり知識なく。デニショーン舞踊団とは、20世紀初めに活躍を始めた、テッド・ショーン(Ted Shawn)とルース・セント・デニス(Ruth St.Denis)夫妻、二人のファミリー・ネームを組み合わせた名で、舞踏学校および舞踊集団。ヨーロッパでは、ニジンスキーなどが活躍する時代のアメリカでの前衛。モダンダンスの礎となった方々、およびグループなのですね。
この映像は、どこかでみたことがあったのですが(舞踊関係のテレビでしょうか)、デニショーン舞踊団(踊り:テッド・ショーン)の代表的なもののひとつでもあるのですね。
Ted Shawn's Cosmic Dance of Siva
そして、このデニショーン舞踊団について調べていた際に、ひとりの日本人の名前をみつけました。新村英一氏(ニムラ・エイイチ、Yeichi Nimura)。ニムラ舞踊賞という賞もあり、舞踊の世界では、知られる方のようですが、一般的には、その功績に対して、あまり語られていない方のひとりではないでしょうか。
長野県の上諏訪出身ということもあり、諏訪市のサイトなどで、その功績や生涯について知ることとなりました。
長野県諏訪市:ニムラ舞踊賞:ニムラ エイイチ・・・長野県諏訪で生まれた舞踊家の生涯とその軌跡
新村英一さんのダンスは拝見したことがないのですが、写真からでもすばらしいダンサーだったということがうかがえます。
新村英一の功績:年譜
1918年 21才で単身渡米。舞踊家をこころざし、セントデニス、テッド・ショーンらに学ぶ。
1925年 ニューヨークのカーネギーホールでデビュー(デニショーン舞踊団)。
1930年 ニューヨークで発表会、舞踊における東洋と西洋の融合を果たす。
1932年~後の妻リサン・ケイを相手にヨーロッパ各地やカナダ、全米で巡回公演、各地で熱烈な支持を受ける。
1940年~ニューヨークの名門カーネギーホールに総合的な舞踊学校「バレエ・アート・ニムラスタジオ」を開き、ユル・ブリナーやジーン・アーサーなど多くの俊秀を送出。
1979年(昭和54年)に亡くなるまで、一度も日本に帰国しなかったそうですが、、宝塚歌劇団や歌舞伎のアメリカ公演、諏訪地方の精密機械業のアメリカ進出にも尽力。長年の日米交流の功績から、1969年には、勲六等瑞宝章を受章されているそうです。
何より、新村英一氏の生涯においての舞踊への情熱はもちろんのこと、日本とアメリカ、東洋と西洋、過去と未来感。共感ももちながら、深く感銘を受けます。
諏訪の由緒ある商家に生まれたエイイチ氏は、家業の状況の変化などもあり、15歳で、東京へ。その後、21歳で渡米。1918年のこと。いろいろな職業をしつつ、ダンスホールへ毎晩通い、その踊りは、ダンサーからも褒められるほどのエレガントさだったとか。その後、ニューヨークで知り合った日本人俳優から、劇に代役で出演という知らせを受け、本格的な舞踊の道へ。そして、1925年のカーネギーホール、デニショーン舞踊団公演でのデビュー。その後も、いくつもの大舞台を踏み、ニムラの名は舞踊家で揺るぎのないものになっていきました。専門誌ダンス・マガジンには「サムライ・ダンサー、ニムラ」と題した評伝が掲載され、イギリスやドイツの雑誌にも記事が載るようになったそうでう。
「サムライ・ダンサー、ニムラ」いいですね。
やはり日本からでると身にしみるというか、切実に思うのですが、国を出てこそ、自分の生い立ち、その文化が、大事になってくること、武器というか、アピールになるということは感じます。ただ、懐かしむということではなく、自分のベースとなり、必要とされる部分でもあり。
ニムラ・エイイチ氏は、日本人ならではの個性を生かし、東洋と西洋、過去と未来を大切にされた方。
自伝にあるという、「東洋と西洋の理想と技術を融合し、芸術的で哲学的、東洋的で西洋的な、古くして近代的な舞踊の形式作りあげる。これが新しい世界のための適切な舞踊だと信じている。過去のものを慈しみ、現在の信念を大切に、未来への大きな希望を育て上げるものだからである」という言葉。
イギリスでの第一回国際夏期舞踊学校の教師、ヨーロッパ、アメリカでの巡演、世界各地で高い評価を受け、20ヶ国を巡り、王立や国立のオペラハウスなどで公演を行ったそう。
その後、創設した「バレエ・アート・ニムラ・スタジオ」では、先にも触れましたが、ジーン・アーサーやユル・ブリナーも学んだのですね。
ユル・ブリンナーは、「王様と私」で大成功したとき、「それは、あのときニムラから受けたインスピレーションによるものだ。」と語ったと。
王様と私(The King And I):ユル・ブリンナーとデボラ・カー
The King and I:Yul Brynner Deborah Kerr(1956年)
初めてしりました:
ユル・ブリンナーは、当初はサハリン生まれのスイス人と日本人のハーフと称していたのですね。
そのあたりにもニムラ氏のイメージなどあったのでしょうか。いろいろな背景もあって、実際にはスイスとモンゴルの血を引く父親と、ユダヤ系ロシア人の母親の間にウラジオストックで生まれたということを変えていたのでしょうけれど、「日本」というは、そんな感じもしなくはありません。
自分にできたイメージを生かしたという姿勢も、そのニムラから受けたインスピレーション、という語りに関連していたりするような気さえ。
新村英一氏のことば:
そのほかにも、まさに、という言葉があるので、そのまま転載させていただきます。
「舞踊を生みだすのは、もちろん、頭のなかでだが、私の場合、それはスタジオばかりとは限らない。霊感はいつ、どこでも湧いてくる。いなか道をゆっくり歩いているときでも、都会の大通りをいそいで歩いているときでも、時にはゴルフをしているときでも、湧いてくる」
「あなたの仕事には、どれだけ伝統が受け継がれているかと、よくアメリカ人に聞かれる。私の舞踊はとくに伝統にはもとづいていない。伝統的なものがあるように思えるのは、私の心が日本人だからで、それこそ、私が祖先から受け継いだものだからである」
ジェリー伊藤さんのお父様、伊藤道郎さんもですが、この当時、日本人ダンサーが海外で活躍していたということは、ほんとに、ごく最近知ったので、この時代の一連のムーブメントとともに、さらなる興味がふくらむばかりです… :D
(投稿:日本 2011年3月7日、ハワイ 2011年3月6日)
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