いままでも何度か、こちらで触れているカセットマガジン、TRA。
ピテカン/TRA関連
どの号も自分の中では、思い入れがある中、Vol.4 "COMICS" 、この号は、コミック・漫画という視覚と物語への感銘、英語やフランス語だけでない多言語への関心、音やその中に込められたメッセージ、感覚的ものに加えて、そこから広がる新たな興味など、あらゆる意味で刺激をうけた、思い入れの強いものでした。

ことあるごとに、あの黄色い表紙のコミックの号と再会したい、と思い、伝えたりしてきたのですが、先日、ついに、その音にまた出会うことができました(涙、涙の再会級)。

この号の中でも、特に夢中になった、ロシア語の朗読とMUTE BEAT(ミュート・ビート)のサウンドでくり広げられた冒険物語、山川惣治氏の「少年タイガー」でした。

TRA SPECIAL COMICS [TRA-S04] (1984年)
新しくもあり、懐かしくもあった印象は、幼い頃にみていた紙芝居とまさに似たような感覚だったのです。当時、山川惣治さんがもともとは紙芝居からその世界を切り開いていったということは知らずに。
(こどもの頃の紙芝居:一般的な紙芝居世代ではないのですけれど、昭和50年代はじめくらいまで生家近くのお寺の側には紙芝居のおじさんきてました)





TRAのコミック・スペシャルへの思い出をきっかけとして、いままで、断片的、部分的にしか触れていなかった、山川惣治さんの作品、また、その軌跡、生涯について、さらに知りたくなり、まずは、入門的に「山川惣治―「少年王者」「少年ケニヤ」の絵物語作家 (らんぷの本)」を手に取り、読んでみることにしました。



この本では、山川惣治さんの代表的作品「少年王者」、「少年ケニア」、「少年タイガー」などの冒険活劇的世界、そのほかのさまざまな作品が紹介され、また、その生涯、インタビューなどの抜粋も。

わたしが、リアルタイムで出会い、目にしたものは「十三妹」(1983年~、これも存在を知ってたぐらい)とビックリハウス(1982年)あたりでしょうか。

絵物語という、山川惣治さんならではのジャンル、その世界、のちの漫画家やイラストレーターの方々への影響(これは自分の推測、想像含む)、また、その人や生涯へと、さらに興味と関心をもつこととなりました。

その代表的な作品たちには、冒険と勇気溢れる世界は、山川フォーマットともいえるであろう、親と生き別れた少年が密林でたくましく成長、動物たちからも信頼をよせられる若き王者となるという、パターンがあるのですが、これは、山川惣治さんご自身の夢でるとともに、戦前、戦後(戦中作品はまた若干異なるものの)と少年たちの夢であり希望の源(そのままではなくとも人生にも置き換えられることは多々あり)。

印象に残ったことや学んだことは、作品、ひととなり、人生すべてにおいて書ききれないほど、ではありますが、エピソードなどのいくつかをこちらに。

[作品・作風・影響]
戦前、少年読み物は小説に挿絵が一般的であたなか、紙芝居という経験から絵物語というジャンルに発展。これは、山川惣治作品によって確立されたジャンルといえる。

漫画への影響。絵物語が登場するまでの漫画は、滑稽なストーリーや風刺などが中心であり、絵のタッチもシンプル。山川作品によって劇画的なジャンルが生まれる。

レコード紙芝居。1930年代、紙芝居からの影響を受け、語りと伴奏が録音されたレコード紙芝居が企画される。初期はリーガルレコード、後期は大日本画劇とコラボでキングレコードが発売。ラジオ紙芝居というものもあった。
レコードとハガキファイの絵がついたもの。原画・作、山川惣治の「爆弾サーカス」、「勇犬、軍人号」などもその中に。

代表作品は、メディアをかえ、さまざまな形でリメイクをさえる。「少年ケニア」は、オリジナル開始は昭和20年代だったにもかかわらず、ラジオ、テレビ、映画となり昭和50年代後半に角川でまた出版される(←企画者の山川作品への愛情、また山川氏への敬意に起因するものが大)

すい子(熱にうなされ病んだ)を抱きかかえるシーン。少年物で、男の子が女の子を抱きかかえたのは「少年王者」がはじめて。新聞にたたかれる。

「おもしろ文庫」、「おもしろブック」ほか。集英社は、山川惣治作品「少年王者」で大きな出版社となった。
この「おもしろ~」は
「おもしろ倶楽部」:ノックノック(NOK)・ニューおもしろ倶楽部 サディスティックス出演 
「ロックおもしロック」:ロックおもしロック
なんかとも通じるものが。

山川作品の中の少女たち。初期は、すい子のようにか弱いが、のちは、ケートのように、自らも闘い力及ばぬ場面では助けを求め、最後の十三妹は超人の強さをもつ。ヒロインたちは、時代とともに強くなる。

たくさんの冒険ものや未開の地の作品を書くも、海外旅行は72才。初めてケニアへ。

[生涯・人となり]
本所の製版所での修行時代を経て、22才で紙芝居の制作、貸元「山川美術社」設立へ。のち、そうじ映画社に発展

もともとはファミリーでのバックグラウンドであった菓子屋をはじめようとしていた(山川家は福島の大きな菓子屋であったが事業に失敗し、惣治、2才で上京。本所で育つ。兄と菓子屋をはじめようとした際も事業協力者に裏切られ資金を失う)

戦中に戦争協力思想のある作品などもあったため、戦後すぐには出版界には復帰できなかったが、単行本の挿絵などを経て、また絵物語としての作品が復活。

関東大震災(子供の頃)、戦災では大きな被害をうける(成功したものの)。山川美術社、そうじ映画社と、さまざまな試みと挑戦ののち、タイガー書房というみずからの出版社をもつが倒産。

山手にドルフィンを開店。アメリカ風メニューと眺望で人気店となりユーミンの『海を見ていた午後』にも歌われるが手形詐欺にあう。

※この数々の事業の困難でも、必ず出版社、企画者などのサポートを得る。敬意、愛情、支持。
1992年、84才でお亡くなりになる最後まで、絵の依頼も受けている。最後の依頼者は、山川惣治さんから多大な影響を受けたという横尾忠則さん。

家族による話。本人が漫画のよう。
-ガードレールをまたごうとして「あれ?お父さんがいない。どこだ?」と探すと、ガードレールの向こうに転んで倒れている。
-自転車に乗って川にそのまま飛び込む。
-自転車に乗ってペンキ屋に突っ込む。ペンキだらけになる
-孫との散歩。駅までお使いにいくのにへんな道ばかり通る。いろいろなところをよじのぼったりしながら。

山川惣治さんの人生も波乱万丈、その冒険を乗り越えるある種飄々とした身軽さを常にもっていたような印象も。

きっかけでもある再会、これからも山川惣治さん作品、気にします。さらに、深く触れることができるといいなぁと。

(投稿:日本 2011年5月16日、ハワイ 5月15日)

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